ビルバオの都市開発
伝統的な工業・港湾都市であるビルバオだが、経済環境の変化により鉄鋼プラントが閉鎖に追い込まれるなど、急速に産業基盤を失った時期がある。 これには、分離独立を目指す民族組織「バスク祖国と自由」の活動に伴う、政情不安も懸念材料となっていた。 悪化するイメージの払拭と再開発を目的として、ビルバオはニューヨークのグッゲンハイム財団が持つ文化資本に着目する。 一方、グッゲンハイムも財政危機を背負い、世界各都市との連携に活路を求めていたため、ビルバオからの打診はまたとない機会であった。 1991年、ビルバオにグッゲンハイム美術館を建設することが合意され,バスク州政府が建設費1億ドルを負担し、美術品の新規取得費用5000万ドルもグッゲンハイムに支給された。 さらに年間1200万ドルの運営費の補助もされた。 それと引き換えに、グッゲンハイムは新美術館に「グッゲンハイム」の名称使用を許可し、所蔵美術品を提供した。 こうしてグッゲンハイム美術館のビルバオ別館は、1998年に開館する。 1998~2006年の来館者数は920万人を記録し、当初予想の年間50万人を大きく上回った。 その大半をスペイン外からの観光客で占める抜群の集客力のおかげで、バスク州政府は負担した建設投資額を3年間で回収できた。 美術館誘致で観光都市として再生したこの成功例は、「ビルバオ効果」と呼ばれ、都市開発の1つのモデルである。
グッゲンハイム美術館
都市開発を目的とし、1998年に開館した、グッゲンハイム美術館の分館の一つである。 アメリカの建築家フランク・O・ゲーリーによる設計で、チタンとクリスタルで作られた巨大な建物である。 平な面が一切ないとされ、チタニウムの板がうねる過激で有機的な形は、CADシステムを用いて構造計算されるなど、時代の最先端の技術を利用して設計されている。 ジョアン・ミロ、アンディー・ウォーホール、ルイーズ・ブルジョワなど欧米戦後美術である現代絵画を中心とした作品を常設展示し、コンテンポラリーアートの企画展なども常時開催されている。 美術館は1997年以降、30件におよぶ各種の受賞がある。 2000年に行われた顧客満足度調査では、全般的な評価では9点満点で 7.71点。清潔さ(7.99)、従業員の対応(8.07)、情報提供(7.80)、ガイドツアー(8.16)などでも高い評価を得ると共に、98%が美術館への訪問を他の人に推薦し、80%が再来館したいとの回答も得ている。 鉄鋼業などくすんだ工業都市の印象の強かったビルバオに急激に観光客を増やし、大きな経済効果をもたらしているこの建物自体が、ビルバオという都市のアイデンティティや価値を伝えるコミュニケーション手段になっている。
ビスカヤ橋
ビスカヤ橋は1893年に建設され、ネルビオン川に架かっている世界最古の「運搬橋」である。 高さ45メートルの橋げたからワイヤロープでつられたゴンドラに乗って移動する、この「運搬橋」という形式は、ビルバオに向かう海上交通の妨げになることなく、また長い傾斜路をもつ巨大な橋を造らずにすむ解決策であった。 スペイン内戦の間4年間、上部構造が爆破されて通行不能になったことがあったがそれ以外は現役である。 ゴンドラは6台の自動車と300人ほどの人間を運ぶことが出来、24時間営業で運行されてる。 また観光用の歩道が上部構造に組み込まれており、50メートルの高さを港や湾を眺めながら歩いて渡ることが出来る。 世界初の運搬橋であることや、その実現のために革新的な技術を用いた鉄製のワイヤーが使われたことなどが評価され、2006年7月13日に、技術革新の証としてユネスコの世界遺産に登録された。
ゲルニカ
ビルバオから電車やバスで1時間弱で行ける、人口16,000人のバスクのこじんまりした街である。 ゲルニカの街にはピカソの絵「ゲルニカ」のレプリカがある。 ゲルニカはスペイン内戦中に、フランコ将軍を指示するナチス軍の無差別爆撃をうけ、多くの死傷者を出した。 第二次世界大戦の初期にドイツ軍によって都市無差別爆撃の練習台にもされたと言わる怒りや悲しみが、その絵に表されている。 フランコ将軍の勝利により終結したスペイン内戦後、この絵はロンドンなどを巡回したのちにヨーロッパの戦火を避け、1939年、米国に渡りニューヨーク近代美術館に預けられる。 第二次世界大戦後もフランコ将軍の政権下にあったスペイン政府はこの絵の返還を求めるが、「スペインに自由が戻るまでこの絵を戻すことはない」とピカソは拒否した。 1981年になってようやくスペインに返還され、現在はマドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されている。