キューバの世界遺産
キューバの世界遺産は文化遺産が7件、自然遺産が2件存在する。
ハバナ旧市街とその要塞群
オールド・ハバナ(ハバナを構成する歴史地区)とフエルサ要塞、モロ要塞、ブンタ要塞、カバーニャ要塞の4つの要塞。1982年に登録された。
ビニャーレス渓谷
オルガノス山脈に位置するカルスト地形の窪地。1999年に文化的景観(自然美と見事に融合した土着の建築、伝統)を評価され、登録された。
その他の文化遺産
トリニダとロス・インヘニオス渓谷、サンティアゴ・デ・クーバのサン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城、キューバ南東部のコーヒー農園発祥地の景観、シエンフエーゴスの都市歴史地区、カマグエイ歴史地区。
グランマ号上陸記念国立公園
グランマ州に位置する国立公園。地形の重要性が評価され、1999年に登録された。
アレハンドロ・デ・フンボルト国立公園
オルギン州とグアンタナモ州にまたがる総面積714.4平方キロメートルの国立公園。2001年に標高差や面積、多様な地形、固有な植物相、豊かな動物相などを評価され、登録された。
キューバのグルメ
キューバ料理はスペインやアフリカ、アジアの食文化から影響を受けており、中でもスペイン料理の影響を最も強く受けている。料理の中心は米や豆類、キャッサバ、バナナ、豚肉などを使ったものである。また、年中温暖な気候であることから様々なトロピカルフルーツを楽しめる。代表的な料理にはアロス・コン・フリホーレス・ネグロス(豚肉とにんにく入りの黒いんげん豆の煮込みをご飯にかけたもの)、アロス・ア・ラ・マリネーラ(魚介類の炊き込みご飯)、アロス・コン・ポヨ)チキンライス)、トストーネス(料理用バナナの素揚げ)、ワカモレ・クバーノ(アボカドとパイナップルのサラダ)、トルティージャ)オムレツ)などがある。また、名産品でもあるラム酒を用いたカクテル(モヒートやクーバ・リブレなど)がよく飲まれている。
キューバの歴史
コロンブスがキューバに1492年の第1次航海時に到達した。先住民(インディヘナ)が当時いたが、スペインによる植民地化により滅亡していき、砂糖や奴隷産業が盛んになり、著しい発展をスペインと中南米の中継地点として遂げた。ディエゴ・ベラスケスが1511年にハバナをはじめとする町をいくつか建設した。フランスやイギリス、オランダなどの海賊、軍が16世紀後半~17世紀にかけ、キューバを数回にわたって攻撃、スペイン側は要塞を建て防御をいっそう固めたが、イギリスが1655年、ジャマイカを征服した。1762年にハバナは2ヶ月の戦いを経て落ち、ついにキューバはイギリスの領土となった。スペインはキューバを何とか取り戻したかったため、フロリダと引き換えに翌年7月ハバナを再度スペインの領土とし、その後米西戦争までスペイン領であった。
葉巻の販売が19世紀初めに自由化され、砂糖に加え、葉巻の通商でも利益を得るようになると、独立の気運が徐々に高まった。第1次独立戦争が1868年に起き、その後第2次独立戦争が1895~98年、ホセ・マルティを中心に起きた。そのなか1898年2月、米西戦争が起こり米側が勝利を収め、1898年12月10日、400年もの間続いたスペインによる支配から独立し、米国の軍政下に入った。1902年5月20日、キューバ共和国が成立した。1920年、第1次世界大戦によって砂糖産業が再度盛んになった。
1952年、バティスタ政権が軍事クーデターによって樹立。翌1953年、バティスタ政権を倒すためフィデル・カストロは同志とともに蜂起(モンカダ兵営襲撃)したが失敗し捕らえられた。その後恩赦で出獄したカストロはメキシコに渡り1956年12月、再度チェ・ゲバラなどの同志とキューバ上陸を図るが、実行前に発覚し山中に逃げ込んだ。勢力をゲリラ戦を展開しながら拡げ、バティスタは1959年1月1日亡命し、革命軍が勝利を収めた。政治の民主化を唱えるカストロ新政権によって医療や教育など様々な政策が進み、多くの問題に社会主義国として直面しつつ独自のスタイルを保持してきたが、ソ連崩壊以後孤立し、米国による経済封鎖で極度な物不足へ陥った。政府の対策で外貨獲得のため観光業、輸出に注力し、結果が実を結びつつある。